暴力団ミニ講座

36) 四代目共政会
 四代目共政会は、広島市に本拠を置き広島県下を縄張りとする中国地区最大の暴力団で、構成員(組員)約280名、準構成員(準組員)約470名を擁しているといわれています。

 この共政会の沿革を辿ってみますと、初代共政会が発足したのが、昭和39年6月となっています。
 かつて、広島市内においては、終戦直後から暴力団の対立抗争事件が泥沼化し、長期にわたって文字通り「仁義なき戦い」が展開され、市民を恐怖のどん底に陥し入れましたが、共政会はそうした凄惨な対立抗争の硝煙の中から誕生したものです。
 すなわち、終戦後、広島市内において博徒「岡組」と的屋「村上組」が縄張りをめぐって対立を続け、昭和21年11月に村上組が岡組の賭場をけん銃で襲撃したことに端を発し、以後、12年間にわたって血を血で洗う対立抗争を繰り返しました。
 これが世間で呼ばれている「第一次広島けん銃抗争事件」です。
 ひにくにもこの過程で、一方の当事者であった岡組が広島市内随一の暴力団としての地位を確保するに至りました。
 その後、昭和37年、岡組組長の引退に伴い、同組織の縄張りと子分を譲り受けた呉市内に本拠を置く暴力団山村組と、岡組の継承を目論んでいた広島市内の暴力団打越会との間に対立が深まり、昭和38年から昭和39年にかけて、両団体が激しい対立を繰り広げました。
 これが、「第二次広島けん銃抗争事件」といわれるもので、この対立抗争事件では、両団体の背後に広域暴力団山口組と大日本平和会が存在したことから、俗に「代理戦争」とも呼ばれています。  そして、この抗争の連続に両団体ともに疲れきり、ようやく休戦状態となった昭和39年6月、打越会に圧力をかける目的で山村組若頭、服部武が奔走して広島ヤクザの大同団結を図り、友誼7団体約600名で、政治結社「共政会」を結成、初代会長に山村組組長、山村辰雄が就任し、ここに初代共政会が発足しました。

 ところが、共政会発足後も各地で暴力団の抗争事件が頻発しましたが、昭和40年11月に至り初代共政会会長山村辰雄が引退し、二代目会長として、服部武が就任し、また、同会理事長には山田久が就きました。しかし、昭和42年、服部武は第二次広島けん銃抗争事件当時の山口組組長宅爆破事件の被疑者として警察に逮捕されたため、以後、山田久が二代目共政会会長代行として会の運営にあたりました。
 その後の昭和44年10月、共政会内での勢力争いから内紛が生じ、同会副会長村上正明の子分が山田久をけん銃で襲撃、これに端を発し、「第三次広島けん銃抗争事件」が発生しました。
 この事件の最中の昭和45年11月、山田久が服役中の二代目共政会会長服部武から三代目共政会会長の座を譲り受けて会長に就任しました。
 三代目会長に就任した山田久は、それまでの連合体組織を改め、自己を頂点としたピラミッド型の一体的組織として再編することを企図し、「盃直し」を強行したため、反主流派との内部対立が一段と激化しましたが、以来10年の歳月を経て、これらの抗争もやっと終りを告げました。
 実に戦後20数年間も「広島けん銃抗争事件」が続いたことになります。
 三代目共政会会長山田久は、昭和62年11月に死亡しましたが、その間17年間にわたり共政会の頂点に君臨しました。
 三代目会長死亡後は、理事長沖本勲を中心に、主要幹部の合議制によって会の運営を行なっていましたが、結局、平成2年9月、沖本勲が四代目共政会会長に就任し現在に至っています。
 その間、平成2年には、広域暴力団山口組との対立抗争事件を引き起していますが、この事件を和解するにあたり、共政会は山口組と交盃による親戚関係を結んだといわれ、要するところ、これによって山口組は共政会に対する強い影響力を確保したものと認められています。

 なお、共政会は、かつては、反山口組暴力団の同盟組織であった関西二十会(昭和45年結成)、西日本二十会(平成元年結成)の有力メンバーとなっていましたが、この同盟組織が前記の共政会と山口組との抗争事件でその思惑どおり機能しなかったことから、この同盟組織は瓦解しています。
 その後、平成8年2月、中国地区に本拠を置く、四代目共政会、二代目侠道会、三代目浅野組、六代目合田一家、親和会の5団体による親睦会「五者会」を結成し、共存共栄を図っていますが、この五者会については、共政会を通じた山口組の影響力が濃厚に看取されているようです。

 四代目共政会も、暴力団による不当な行為の防止等に関する法律に基づき、「指定暴力団」に指定されています。


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