暴力団ミニ講座

37) 松葉会
 松葉会は、東京都台東区西浅草に主たる事務所を置く広域暴力団で、その勢力範囲は関東以北の1都1道8県に及び、構成員(組員)約1,500名、準構成員(準組員)約600名を擁しているといわれています。

 松葉会の沿革を辿ってみますと、松葉会の前身は、昭和11年ごろ結成されたといわれている、土建業「関根組」となっています。
 関根組を結成したのは、関根賢で、当時当人は、土建業の傍ら博徒として鳴らしていましたが、昭和11年ごろ、東京墨田、江東方面の博徒やグレン隊を統合して、東京墨田区向島に事務所を設け、土建業関根組の看板を掲げました。
 組結成後は、その組織をバックにして、賭場荒しや恐喝などの暴力事犯をくり返し、過激暴力組織として怖れられながらも、急速に勢力を伸ばし、全国にその名を轟かせるまでになりました。

 しかしながら、戦後の昭和22年、機関銃の不法所持が発覚し、組長の関根賢をはじめ多数の組員が、当時の連合軍総指令部(GHQ)に検挙され、軍事裁判において服役するところとなり、関根組は解散状態に追い込まれてしまいました。
 この窮状に際し、当時権勢をふるっていた博徒住吉一家三代目親分、安部重作の舎弟分で関根賢の右腕といわれていた藤田卯一郎が、新たに「藤田組」を結成し、組織の存続を企図しましたが、一部の組員はなお関根組を名乗り、しかも、暴力事犯をくり返したため、両組とも団体等規正令の適用を受け、藤田組は昭和24年3月に、関根組は同年6月にそれぞれ解散を命ぜられて消滅しました。

 ただその後、組織の再建を図っていた藤田卯一郎は、昭和28年にいたり、久野益義等旧関根組幹部とともに、旧関根組、旧藤田組の組員を糾合して「松葉会」を結成しました。
 松葉会の名称は、関根賢のかつての親分、河合徳三郎の家紋が「松葉」であったところから名付けたといわれています。

 こうして新しく結成された松葉会は、東京を中心に関東以北の各地に勢力を伸ばして行きましたが、暴力団組織であることを隠蔽し、自らの存在を正当化する目的もあって、昭和34年9月、政治結社の届出を行い、「政治結社、松葉会」として、右翼を標榜した政治活動を行うようになり、政治活動色を強めて行きました。
 その間、昭和35年4月2日には、マスメディアに対する挑戦事件として著名な、「毎日新聞東京本社襲撃事件」を敢行し、「行動右翼」として世間に大きな衝撃を与えたりしています。

 ところが、昭和41年に、会長の藤田卯一郎が急死したため、松葉会は一時的に解散に追い込まれ、松葉会傘下の各組は個別に活動を続けていましたが、昭和43年11月に「松友会」として再結集し、以後、昭和46年には「松友睦」、昭和48年4月に元の「松葉会」に名称を変更し現在にいたっています。
 なお、松葉会の現会長は、平成4年12月死亡した5代目会長中村益也の跡目を継いで、平成5年12月に6代目会長に就任した牧野国泰こと李春星となっています。
 松葉会も、暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律に基づき、指定暴力団に指定されています。


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